好きなものだけ

〈ゲーム編1〉

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十三機兵防衛圏

2019月12月5日

 

 

製作が発表された段階で、かならず買うことを心に決めました。ヴァニラウェアが設立される以前の作品――『プリンセスクラウン』で気持ちを鷲掴みにされて以来、神谷さんがリリースされるゲームのことごとくが自分の好みにジャストフィットする感覚を確かめてきました。近作の『ドラゴンズクラウン』も『オーディンスフィア レイヴスラシル』も見事な完成度を誇っています。本作も、面白くないはずがない。一作に賭ける意気込みは、ほかの大手ソフトハウスに引けを取りません。むしろ、ヴァニラウェアという企業のゲーム作りは、そのあたりにこそ定評があります。

SFアドベンチャーとリアルタイムシミュレーションゲームのパートにわかれてストーリーが進んでいきます。この作品は、序盤を遊べる無料ソフトが配布されていました。わたしはといえば、あえてそれに触れずに来ました。ファーストインプレッションを大切にしたくて、遊びたい気持ちが本気にならないように、注意力を散漫にしていたのです。おあずけを設定してでも、それに耐えることが喜びになってしまうという、よくわからないマゾゲーをひとりで遊んでいたようなものです。それほど遊びたかったソフトなのでした。

このページでは小ネタ集のように、プレイしながら感じたことを都度都度記事を増やしながら語っていこうと思います。ストーリーを追うわけではありません。考察を要する所をさらっとスルーすることもあります。首尾一貫性がない可能性のほうが高いです。細部だけを自分なりに詰めていく方が面白いから、自分のフックの引っ掛かったところを重点的に攻めていくつもりです。お暇でしたら、以下、ゆっくりと継続していきます雑記に付き合っていただければ幸いです。

 

 

 

画像は、1985年が舞台です。このとき、女の子の制服のスカート丈はこんなに短かったでしょうか。息を吐くようについてしまうフィクションゆえの自然な嘘が気になりました。

それはさておき、青系統の色調に統一された画面に、主人公たちが放課後、だべりながら友人を捜し歩く風景は、吸ってはいけないたばこを吸ったりしていた不良たちがたむろしていたゲームセンターの、いかがわしい臭いと一緒になって、わたしよりは確実に上の世代の話だけど、なんとなく憶えているあのころを彷彿させます。

わたしが高校生のとき、少年マガジンで『特攻(ぶっこみ)の拓』という漫画がありました。暴走族の話です。400ccの単車がたくさん出てきて、夜な夜な、主人公たちは道路をかっとばして、ときおり抗争をしたり、喧嘩になったり、パトカー、白バイに追い回されたりする。それも80年代から90年代にかけての、サブカルチャーのなかに組み込まれていた要素であって、そんな世界は、高校と家庭の往復であったわたしたち十代の若者にとっては遠い異世界の話に思われもしました。遠い異世界に思われるところが、キーポイントかと思うので、以下に詳しく語ります。

このゲームの制作サイドの話として(いちおう発売週のファミ通のインタビュー記事に準拠しますが)、自分たちが知っている時代を舞台にして描く方がよいと定められたということです。無理して今を描こうとするよりも、そちらのほうが作り手として誠実である気がします。作中にはノスタルジックな雰囲気が漂っています。これまでにヴァニラウェアがかかわってこられた、和風であったり、ファンタジーであったり、洋の神話ベースの物語であったりと同様に、どこか現実を遊離したような、完成されたひとつの世界が提示されているように感じました。ボリュームが圧倒的に張り詰めています。見たことのない世界をまるっぽひとつ、ぽんと提示してしまえる安定感が素晴らしい。街の喧騒も、BGMと相まって、雰囲気作りに一役買っています。こういった作品を作れてしまえるクリエイターさんがうらやましくて、かつ、ねたましいですよ。ほんとにずるい(笑) そして遊ばせてくれてありがとう。

 

 

 

ヴァニラウェアのゲームといえば、登場する食べ物がいかにも美味しそうに描かれることで有名です。『オーディンスフィア』では、マップ踏破で集めた食材を用いて、街で一皿の料理にしてもらえることもできたし、『朧村正』ではおにぎりや汁物なんかも、質感がそっくり描かれてあったり、温かそうな湯気を立てていたりする。『ドラゴンズクラウン』では自分で選んだ食材を鍋にぶちこんで、ひとりひとりがそれぞれに食事をとることができる。食に対するこだわりはすばらしいけれど、たいてい夜にプレイすることのおおいゲームメディアにおいて、美味しそうなメニューが連続するのは、『深夜食堂』や『孤独のグルメ』のドラマとおなじく、立派な飯テロ行為だと思うのだけど、どうだろうか。

そしてこの比治山が手にする焼きそばパン。彼にとって焼きそばパンは手放すわけにはいかないマストアイテムだったりします。食べたらなくなるんだけど、わずかな登場回数のなかで、すでに焼きそばパンがらみのエピソードが三度も発生しました。どれだけ焼きそばパン愛が強いのかと。でもわたしも高校生くらいのときって、好きなものを好きなときに好きなだけ食べるのが幸せだったなと思い返されます。パンよりは駄菓子でしたね。駄菓子であっても、ガムとかグミとかチョコレートの、甘党寄りのチョイスでしたけど、学校帰りにいつも買い食いしてました。焼きそばパンという炭水化物の結実したものを選ぶというのは、男子高校生として、肉体派として、当然、ありうべきことのように感じます。あとで、兎美たち女子三人組も、買い食いの中でホットドッグを買いますが、ホットドッグも焼きそばパンと同様に美味しそうに見えました。魅力的な食べ物に彩られているゲームというのは、これだけでも親しみを覚える要素であります。

 

 

 

冬坂が見かけるこの黒猫は、ゲームのキーパーソンになっていくキャラクターです。(厳密には、パーソン(人)ではないけどね。)薬師寺との関係をみるにつけ、この猫は、アニメ『まどか☆マギカ』に出てくるキュゥべえのキャラクターが彷彿されます。僕と契約して魔法少女になってよ、なんだけど、特殊な力をもった少年たちを無力化する銃を持ち出すあたり、かれ(しっぽ=黒猫)が重要な役割を負っていることはいうまでもありません。このタイプは、ゲーテの『ファウスト』のメフィストフェレスにも似ているなと感じます。はじめは甘言で釣りながら、相手を絶望の底に突き落とすのみならず、かかわりのあった人物全員も不幸の淵へと追いやっていくような悪しき心を持っているようにも思えて、現段階では謎が謎を呼ぶ形で、なんら決着の見えない展開に、先を読み進めることにしか救いはないような気持ちになってきます。

とはいえ、このシーンの段階では、まだ何もわからなくて、ただ猫がいて、かわいらしさをアピールするのかな、どうだろうかな、とコントローラを握るわたしは暗中模索している段階でした。しかしこのしっぽが登場するシーンは随所に見受けられて、主要キャラの前にはほとんど必ずといっていいほど姿を見せています。この猫にも注目しておきたいですよ。油断のならない臭いを芬々と振りまいておるのです。

 

2019月12月6日

 

 

ファミコンの発売が1983年だから、2年後の1985年ならソフトもそれなりに出ていたでしょう。当時小学生だったわたしも一般の例にもれず、学校が終われば、知り合いの家に押しかけてファミコンの前に鎮座していたものです。小さいころからゲームウォッチや、インベーダーゲームなどの存在を知っていた自分たちにとって、ゲームで遊ぶことはほぼマストの趣味でした。当時高校生であったなら、それなりに小遣いも持っていれば、ゲームソフトも買えただろうし、好きな人は勉強時間を犠牲にしてでも、ゲームのプレイに余暇を費やしたことでしょう。

にしても、この、「見つけたぜ 俺のゲームセンター」という軽口のニュアンスが気になります。友人関係の親密さをあらわす一方で、一方的に利益を享受している上下関係のようにも思われてくる。わたしが男性同士の友人関係に違和感をおぼえるのは、こういった細部の言葉遣いに関してのことが多いです。一方が他方に対してマウントをとっているようにも聞こえてしまう。もちろん、向こうを向いている溝口は、相手の依存をクールにあしらえるキャラクターだから、マウントの取り合いのような見苦しいものにはならないですけどね。しかしこういった言葉の荒さこそが、悪くない関係を作る一因になるのだし、プレイするこちら側も受け入れていかねばならない部分なのでしょうが、わたしにはこの言葉遣いとそれに伴う男性の友人関係の在り方が苦手であったりします。自分に直接関与することのない、物語の上における関係だから、そういうものとして受け入れてしまえばいいのですけど。

しかし後ろに立っている十郎のキャラクターはまだまだ謎に包まれています。廃人に近い人間になってしまったのは、もちろん、機兵に搭乗しすぎたことによる精神の摩耗が原因だったのでしょう。そう考えると、機兵と搭乗員の関係は、『エヴァンゲリオン』で描かれるエヴァとサードチルドレンたちの関係によく似ている。精神回路への接続によって機兵の指揮系統を統御していて、そこのバランスが崩れてしまえば、アスカがそうだったように、精神の崩壊を招くことになります。十郎はその状態からの帰還者であるといえそうです。それでも彼が支払った代償は大きい。これまでの記憶の大部分を犠牲にしたのだから。彼は自分が何者なのか思い出せないでいます。記憶はもう取り戻せないのでしょうか。もちろん今後の展開によって、彼にリカバリーの機会が与えられることを期待したいところです。しかし、救いのない結末になったとしても、それはそれで面白そうだと感じています。気がつくとプレイに没頭しそうになってます。

 

2020月1月24日

 

 

まだまだ序盤も序盤だから、本格的なストーリーには行き当たってないのかもしれない。でも行き場を失った感覚がどの登場人物にも共通して見ることができそうだ。かつてのヤンキーやスケバンといった不良は不良で、自分の抱いている信念と、邪にも見える社会の汚さとがどうしても整合性をとることができずに、反抗に次ぐ反抗を繰り返した。

他方で、優等生といわれる人格の持ち主であり、あるいは問題を起こすことなく日々を過不足なく生きているようにみえる一般生徒にしても、その心の根底には、社会の大枠に対してどうしてもそのままに受け入れるには納得のいかない部分を抱えているもので、若輩者にとっては、年長者の作り上げている社会は異質なものにちがいないのだ。

かつてのヤンキー漫画には、行き場を失って暴走する暴力性みたいなものが余すところなく描かれていたし、令和の新作テレビゲームである本作であっても、登場人物たちの抱える疎外感であったり、孤立感であったり、孤独感みたいなものはしっかりと感じとることができる。

ゲームは孤独に遊ぶものという観念がわたしにはつきまとっている。それぞれの登場人物が抱えている大きななにかに思い当たることもある。同時に、自分もまたこの独特の創作の空気感を抱えて生きていることに思い当たる。いくつになっても物語によって描かれる本質は、自分が求めさえすればいつだって等身大のものになりうるように感じられる。

 

 

 

東方仗助リスペクトでしょうか。髪型をバカにする、キレる、でも心優しいフリョーは口ではきついことをいっても、いいながらすでに相手を許している。仗助の場合は女性でも殴りそうに見えるけれど、でもたぶん、殴ることはけしてないんだろうな。緒方もまた男らしい男で、男らしい男は女性に手は上げない。口ではなんといっても、憎まれ口に、減らず口に、あれこれ文句をいうにしても、結局のところ、肉体的な痛みを伴う物事は男性の世界のことと思っているから、まちがっても手を上げたりはしない。そんな世界観がかつての日本には存在していた。いまはどうなんだろう、そんな分別すら崩壊してしまって、男性も女性も、手を上げる奴はその時点でクズという認定を受けるようになったのではないかな。

チンクシャ、リーゼント、アマ、そんな言葉遣いしてるよ、ぷぷっ、って感じです。でも、いまわたしたちが日常で使ってる言葉だって、いつなんどき、そんな風に思われる日が来るかわからない、覚悟しとかないかんですよ。まったく。

でも兎美と稔二はいいコンビかな。強がる女の子と、トッポい男の子はワンセットで考えるべきってのはヤンキー漫画の鉄則でもあって、たいていそういう場合、女の子は髪の毛を金に染めているか、赤毛か、なんやかやで黒髪であることは少ない。兎美の髪色やおしてしるべし、なんていってみたくなります。

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