気になった文章

〈1〉

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気になった一節を引用して 雑感を記していきます
なにが飛び出しますことやら わたしにもわかりません

目次

ジャック・ラカン『エクリⅠ』

情念の語がつくる結び目 / 現実性と潜勢性 / みずからの自由の限界 / 〈自我〉の総合 / 話の伝達作用 / 偽りの伝達作用 / 言語の螺旋階段 /

ジャック・ラカン『エクリⅠ』

情念の語がつくる結び目

225p.~226p.より

 このように言語のなかで証明され告知されるのは存在のもろもろの姿勢であって、これらのなかで《健全な判断力(ボン・サンス)》はなるほど《世界にもっとも広まっている事物》をなすものではありますが、だからといってその点についいてデカルトをあまりに安易すぎるとみる人たちのうちにそれが認められるところまでいっていないのです。
 そういうわけで、人間における文化的なものの登録簿が当然のことながら自然的なもののそれを含んでいるところの人類学においては、心理学を正気ならぬものの領域として、言いかえると、語法(ディスクール)のなかで結び目をつくるすべてのもの――情念の《語(モ)》がそれを十分に示しているように――の領域として具体的に定義することもできるわけでしょう。
〔そこで〕私たちは狂気のもろもろの意味を検討するために、この通路に入ってみましょう。そのことは、言語がそこに示している原本的な様態(モード)が私たちをそちらへ十分に促しているとおりです。すなわち、あの言葉による当てこすり、神秘的な関係、同音異義のあそび、語呂あわせなど、これらはギローのような人が夢中になって調べたものですが、――さらに言えば、妄想を見破るために或る語におけるその共鳴を聞くすべを心得ていなければならないところのあの奇矯な響き(アクサン)、言葉で言い表せぬ志向における言い回しの変貌、意義素(セマンテーム)(まさしくここでは記号(シーニェ)へと下落しがちな)における観念の凝固、語彙の混合、言葉の癌ともいうべき造語症、粘りつくような統辞法、陳述の二重性、さらにはまた、一つの論理と同価ともいえるまとまり、一つの文体の統一から同一語反復症(ステレオティピー)まで妄想のそれぞれの形式にしるされる特徴、これらすべては精神病者が談話もしくはペンによってわれわれと交渉をもつ手段なのです。

 

*

 

《ボン・サンス》はここでは《健全な判断力》と訳されます。常識や良識と訳す場合もあります。感性であり、感覚であり、感受性でもあると語の意味を広げてみれば、常識よりも判断力と訳す方がしっくりくるようです。
 つぎの段落では、《語法(ディスクール)のなかで結び目をつくるすべてのもの――情念の《語(モ)》がそれを十分に示している》という言葉に着目しました。物を書くときの心持と、読み返すときの心持とを比べます。文体は自分の情念、精神性、感受性といかに結びつくものか。これは日ごろ意識するところです。無数の候補のなかから、どうしてこの語(モ)を選びとったのか。その連続によっていかに文章を成り立たせたのか。多くの「とらわれ」が、書く姿勢の裡に見受けられます。
 三番目の行では、狂気と言語の関係について検討されます。物を書くときのわたしは、少なからず狂気の側面を伴っているようです。推敲はその傾向をある程度和らげますが、初稿の段階では《言葉で言い表せぬ志向における言い回しの変貌、意義素(セマンテーム)(まさしくここでは記号(シーニェ)へと下落しがちな)における観念の凝固、語彙の混合、言葉の癌ともいうべき造語症、粘りつくような統辞法、陳述の二重性、さらにはまた、一つの論理と同価ともいえるまとまり、一つの文体の統一から同一語反復症(ステレオティピー)》という側面が原稿にはあり、自分自身、大抵、この系統に属する文章を書いています。
 自分に当てはまる側面を見出したからこそ立ち止まりました。伝えたい核がある。どうすればこれを捕まえることができるか、表現することができるかという模索のなかで、文章は、神経症的傾向、狂気と呼ばれる側面が付きまとってきます。文章にかぎりません。何かを伝えようと口を開くときでも、慣れないものを扱うときほど表現は妄想に寄り掛かってゆきます。

 

*

 

 前段でわたしは「こだわり」という語(モ)を取り出しました。ラカンの言葉の《結び目》をわたしなりに受け取れば「こだわり」という語に変じます。「執着」「執念」「とらわれ」という仏教語を背景にしています。前段の「捕まえる」も、「とらえる」の意味に影響を受けて選択した語モでした。文章の語法(ディスクール)は、自身の情念、常識、理知、判断力といったものを背景にしています。その語(モ)を選び取るべき必然が、書かれる内面には存在したということです。もちろん「とらわれ」という語に結び目をつけているのはわたし自身です。
 そもそも「とらわれ」は解消すべきかという問題がある。「こだわり」は堅持すべきか破棄すべきかという問題もある。病者が語に《結び目》をつけるのも、「とらわれ」であり、「こだわり」であると見てもいい。西洋的にみるか、東洋的にみるかの違いでしかない。ひとつの語に過剰な期待を寄せることが、文章を散文から遠ざける。散文を書いているつもりで、自身にこだわりのある語を里程標のように置いてしまう。
 わたしにとって、書くとは道しるべを置くことです。道しるべの意味は書き手の裡にあります。また道しるべの連なりは、これから辿る道を明らかにすると共に、あとで辿った旅程をも詳らかにするものです。実地に踏み出されるまで予測がつかない。次の語の選択も、予め見えるものではない。書くことは発見の連続だからこそ、おそらく飽きが来ないのでしょう。
 散文を書くのであれば、奇抜な表現は避けるべきです。自然の流れに即してこそ、ひとつの語法として完成するはずです。内面の結び目をどれだけ弛めるか、あるいはほどくか、その匙加減をあやまつことなく、これからも文章道に精進してまいる所存です。

現実性と潜勢性

231p.~232p.より

――ただし《気ちがいじみた》企てというのは、それが生活への適応を欠いているという点にあるのではありません。こういう言い方はよく耳にするものではありますが、われわれの経験について少し反省するだけでも、それの恥ずべき空しさをわれわれに証明してくれるはずです。気ちがいじみた企てと私が言うのはむしろ、患者がこういう世界の混乱のなかに自分の現実の存在の表明そのものを認めようとしない点、そして彼が自分の心情の法則と感じているものがこの同じ存在の、倒立像でもあり潜勢像〔虚像〕でもあるにすぎないという点です。したがって彼はこの存在を二重に無視しており、そしてまさしくこれを現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)に二分している結果になります。ところで、彼はこの潜勢性によってしかこの現実性からのがれることができません。してみると、彼の存在は一つの円環のなかに閉じこめられているわけで、あとは、彼がこの円環をなにかの暴力によって断ち切るしかなく、その場合自分に混乱とみえるものにたいして一撃をくらわせながら、社会的反衝撃(コントル・クー)によってわれとわが身を打つわけです。

 

*

 

 気ちがいという表現一語によって非難されるかもしれない弊をおしてでもこの部分を引用したかったのは、先日観た映画『ジョーカー』の内容と併せて示したかったからです。さきにWeb日記にまとめた文章から引用します。

(注意:『ジョーカー』のネタバレを含みます。)

 

*

 

映画「ジョーカー」を観てきました。

アーサーがジョーカーになっていく過程が描かれます。笑いがひからびている。荒い苛立ちを帯びている。空気が張り詰めて、耐えきれないものへと変わっていく。子供のころ、テレビを観ていても、人が失敗しても、ことあるごとにけたたましく笑っていた自分を思い出した。あのころ、笑いは攻撃性の発露だよ、といわれても受け止められなかっただろう。現在はどうか。わたしは笑いは攻撃性を示すものに限らないと思っている。あの当時、自分が笑っていた理由――せめて笑い声でもあげなければやりきれない、自分の裡に感得していた、なにもなさ、からっぽさ、甲斐のなさ、この意識を、噴きあげる笑いの騒擾の中に麻痺させなくては耐えきれなかった。そんな感覚のあったことを、いまでも鮮明に覚えている。それが自他ともに向かう攻撃性の亜種だといえばそうかもしれない。

誰でもジョーカーになりえるか、という問いに対して、大半の人間はジョーカーに引きずられて影響を受ける人間にはなりうるかもしれないが、ジョーカーになりうるのは、限られた一部の人間であり、さらにいえば、なんらかの不幸な偶然の重ならない限り、その可能性は限りなく低い値にとどまる、といいたい。

不安にも不満にも押し込められて、自由に身動きをとれない自分を感じる人は、社会にあふれているはずだ。それでも日々の生活のために、小さなところに満足を見出すことで、現状に対して相対的に我慢を重ね、軋轢を感じても、苛立ちを覚えても、ことさら大人しく、軽挙妄動を慎む。それが現代社会のマインドだろう。

かといって、この現代、したいことをしてもいい自由が与えられたとして、だれがふだんと違うことに打ち込むだろうか。車がある人間は車を運転し、スマホで十分な人間はスマホだけをさわる。遠出は疲れる。すこしでも休みたい。何気ない日常から、自分なりの満足を引き出す。高望みの概念が薄れているのが現代日本の姿だろう。

ジョーカーはダークヒーローと呼ぶべきか。誰もが達しえないところに達しており、強烈な個性が観衆の耳目を惹きつける。全編を通じて、不協和音の連続だった。しかしジョーカーの内面の衝迫と一致するような音のつくりに、共感を覚えるシーンが幾度もあった。

わたしは引き金を引ける人間ではない。異なるアイデンティティを認めることのない頑迷固陋な社会に自分のむき出しの感覚をいかに麻痺させてやり過ごすか。これができなければ、まともに生きられる社会ではない。同時にそれがものをわかった大人になることと同義なのかもしれない。なんて、映画を観終えたわたしは思っている。

 

*

 

 これを書いたのは25日で、きょうは28日です。主人公アーサーがテレビ番組の名司会者を射殺し、ジョーカーとなるまでの内面の履歴を映画で辿りました。日記は自分が感じとった内容のある側面をなぞるにすぎません。さらに奥にある正気と狂気の問題。現実と真実の折り合いのつけ方。どのように表せば、自分の捉え得た印象を正しく穿てるものか思案しました。
 アーサーは人を笑わせたいと願った。人を笑わせる人間になれると信じていた。現実は、地下鉄のビジネスマンは嘲笑するけれど、いわゆる芸に対する笑いは全く起こらない。彼のほうがステージの上でひとり笑う始末だ。
 笑いについて考察する人は他にもある。しかし、わたしは、自分が捕えている虚像と他者が捕えている実像の乖離現象について考えてみたかった。そんな日々に、たまたま行き合ったのが、ラカンの文章でした。

 

*

 

 アーサーの人生は、ひとつのサイクル=円環のなかに閉じていた。困窮から抜け出す道は見えない。日銭を稼ぐためにピエロ(道化)の仕事に打ち込んでいる。いつか人を笑わせるコメディアンになれると信じ、日々の生活に耐えてきた。信じていた夢はひとつずつ敗れていく。父の存在は得られず、芸人としての成功も望めず、唯一身近だった母も信頼に足る人物でなかったと知る。
 作中で示す彼の「笑い」と「涙」の両立は、《現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)に二分》され、《倒立》し《潜勢》した《現実の存在》があげる悲痛の表現であると受け止めました。
《彼の存在は一つの円環のなかに閉じこめられているわけで、あとは、彼がこの円環をなにかの暴力によって断ち切るしかなく、その場合自分に混乱とみえるものにたいして一撃をくらわせながら、社会的反衝撃(コントル・クー)によってわれとわが身を打つわけです。》と書いてあります。
 閉じた円環から飛び出すためにジョーカーが執った手段は、他者へと向かう暴力の開放、ことに、テレビの生放送で司会者に向けて放った何発もの凶弾でした。ジョーカーは想像もつかないレベルの《社会的反衝撃(コントル・クー)》を得ることでしょう。しかし小さな円環から飛び出したさきに、さらなる円環があるという邪推まで成り立ちます。
 それはわたしが一観客でしかないからでしょう。映画を観る前も、観た後も、自分が思っているわたしと、人が見ているわたしの姿のちがうことはわかっている。暴力という手段は自分には好ましくない。円環の裡にあるわたしが実地に執りうる手段は、《現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)》を双つながらに拡張し、そのどちらにも懐疑の目を向け続けるという態度です。懐疑の状態を内に引き受けることによって、円環を巡る行為を受動的なものにせず、ときに立ち止まり、ときに考え抜き、能動的に動ける主体の確保を必要とします。
 即時の行動を求められて下した判断も、永劫にわたって保持できる方針ではない。つねに立ち止まり、考え抜き、反省し、さらにいい判断を期すために努力する。もちろん、『ジョーカー』の主人公アーサーの心の揺れ動きに共感する部分は多々ありました。ただし人生はそれだけではないと思っています。単純な言葉で済ますわけにはいかない大きな塊をぶつけられた印象を持っています。

 

みずからの自由の限界

237p.~238p.より

(――前略)狂気は人間の生体のもろさの偶発的な事実などであるどころか、人間の本質のなかで開かれる或る断層の不断の潜勢性なのです。
 狂気は自由にたいして《侮辱》であるどころか、そのもっとも忠実な同伴者でありますし、その動きに影のようについてまわります。
 そして人間の存在というものは、狂気なしには理解されえないばかりでなく、人間はもしみずからの自由の限界として狂気を自分のうちに担わなかったなら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう。
 そして、このきびしい話題を私たちの青春のユーモアによって中断しますと、私たちの医局の壁に私たちが簡潔な定式で書いたように、《なろうと思っても狂人にはなれない》というのはなるほど本当です。
 けれどもまた、狂気をとりまいているもろもろの危険にさえも、望んだからといって近づけないわけです。

 

*

 

 四書のひとつ『論語』には、「四十而不惑(四十にして惑わず)」という言葉があります。「十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」のなかの四十の部分です。わたしは先日、誕生日を迎え、また一歳齢を取りました。数年前、四十歳の誕生日に、忽然とひとつの考えが飛来しました。ひとつの思念がふっとやってきて、自分のなかに納まりました。
 若いころは、目や耳ばかりを働かせています。数学で複素数を学ぶあたりから、徐々に虚数の価値が見えてくる。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五感に感じ取れるものだけでなく、感覚できない領域に広がっている存在を予感することになる。虚数を設定することによって、数学で扱える範囲が格段に増えると同時に、既存の概念に足らなかったものを補完することができた。これと同様に、目に見えなくとも、耳に聞こえなくとも、虚と実、二つ共に認めることによって、いかに実相が変化しようも、主体を安定させておける土台を準備することが可能になる。
 現実性と潜勢性。アクチュアリテとヴァーチュアリテ。リアルとヴァーチャル。現実と仮想。実と虚。この二つを同時に意識する境地に立つこと。これは自由と狂気を併せ持つことと同じであって、そうした安定した境涯にあってこそ、孔子のいう「不惑」の段階に進むことができるだろう。《人間はもしみずからの自由の限界として狂気を自分のうちに担わなかったなら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう。》という言葉のとおり、人間四十ともなれば、思うところ、行うところ、みずから狂気めいたものを内部に潜ませていなければおかしいくらいです。
「不惑」とは惑いがなくなるのだから、たいへん優れた境地のように聞こえますが、まだ天命も知らないし、耳は従わないし、心の欲するところに従えば、矩もときには超えてしまいます。四十はまだ道半ばです。狂人に堕ちないためには自省も必要です。しかし《狂気をとりまいているもろもろの危険にさえも、望んだからといって近づけないわけです》といわれるとおり、狂気との付き合い方も人それぞれです。危険に近づけば、自然、弁がおりて、心身のほうで自衛策をとってくれるものですけどね。
 自由も狂気も、好きにできるものではありません。
 はじめて足を踏み出す勇気は、自由であると同時にどこか狂気を孕むものである。狂気を伴わない行為は、勇気でも自由でもなく、習慣の延長にすぎない。
 四十歳の誕生日にわたしの頭に飛来したのは、こんな考え方でした。処女地を歩くに惑わないだけの基礎が形作られる。それが「四十而不惑」の内実に思えます。

〈自我〉の総合

241p.~242p.より

〈自我(モア)〉の総合に関するすべての考察はこの現象を主体のなかで考えることをわれわれに免除してはくれないでしょう。すなわち、主体が〔自我という〕この言葉のもとに理解しているすべてのものですが、これは単に矛盾を免れているだけではなく、正確には総合的ではないのであって、このことはモンテーニュ以来知られているところであり、さらにはまた、フロイトの経験が否定(Verneinung)の場そのものをそこに指定して以来、知られているところです。この否認というのは、それによって主体が彼の持ち出す否認そのものによって、また彼がそれを持ち出すまさにその時に彼の運動のひとつをあらわに示すところの現象です。私が強調するのは、所属の否認(デザヴ)ではなく形式的否定(ネガシオン)が問題であること、言いかえれば、われわれが主張した逆転した形での、無視(メコネサンス)という典型的現象が問題であるということです。つまり、そういう形の、一番ありふれた表現――たとえば「……ということなんか信じてはだめですよ」といった表現――は、そのようなものとしてのほかのものとのあの深い関係をわれわれにすでに漏らすもので、これこそわれわれがこれから〈自我〉のなかで強調しようとするものなのです。
 とにかく経験というものは、なにものも〈自我〉をその理想的諸形式(フロイトがその諸権利を見いだしているところの自我理想(Ich-Ideal))から分離していないこと、そしてすべては〈自我〉をそれがあらわす存在の方から制限しており、というのもそこからは有機体のほとんどすべての生命がぬけおちている――生命がおおむね無視されているばかりでなく、有機体がそれのもっとも大きな部分と認めてはならないというかぎりで――ことを、われわれのもっとも単純なまなざしにさえ実証していないでしょうか。

 

*

 

 人は見たいものしか見ない。見たくないものは見ないし、無かったものとして扱う。存在自体を否定してしまうことは、夙(つと)に有名なところです。いったん認めたうえで否(ノン)を突きつけるのであれば、そこには判断力が働きます。認める認めないのまえに――つまりそのものを受け取るまえに――見ないことにしてしまう。見ない判断も下さぬうちに存在を素通りしてしまう。以降、振り返られることはない。主体に欠けがあるのであれば、自我の総合が主体であるという考えに賛同するわけにはいかない。
「……ということなんか信じてはだめですよ」と相手を使嗾するとき、対象を受け取る受け取らないというとりあえずの経験の機会を相手から奪ってしまう。経験を通過しないから、吟味する体験も得られないし、概念だけの話、上っ面だけのことになって、相手の血肉になるものが極端に少なくなる。行動の機会を奪うことは経験を奪うことであり、あらゆる部分の総合に欠損を与える主因になってしまう。
 あれをしてはいけません、そこに近づいてはいけません、と母親は子供を危険から遠ざけます。子供は危険を思い知る経験をしないままに成長してしまう。大人になっても、危険のなかの危険性そのものを実感する経験のないばかりに、うかつに危険に近づいてしまうこともあれば、そこらに点在する危険に即した防衛態勢を執ることができない事態にも陥る。あるいは、必要以上に危険を恐れるようになる。一度でも体験していれば対処法も見つかるも、経験の足らないことがかえってその人を危険に陥れる。
 無視、否定によって経験が不足したままでは全体の総合はかなわないし、弱点もそこに生じるだろう。人は見たいものしか見ない。見たくないものは、ないものとして扱う。見たくないものを、見ようとするにはどうすればいいか。むずかしいね。

話の伝達作用

343p.~344p.より

 実際、話が何か空虚に思われるのは、その話がその表面上の意味において受け取られる時だけである。すなわち、表面上の意味とは、マラルメの一節を正当化するものであろう。彼は、言語活動の通常の用法を、表も裏も、もはや擦りへった表面しか持たぬものなのに、それを《黙って》手渡しし合っているような貨幣の交換にたとえている。この隠喩がわれわれに想い起こさせるのは、言葉は、それが極限まで擦りへらされても、その受け渡し札としての価値は保持しているということである。
 たとえ、話が何ものも伝えない場合でも、それは伝達作用の存在を示す。また、たとえ、話が明証を否定する場合でも、それは言葉が真実を構成するということは肯定する。また、たとえ、話が欺くように運命づけられている場合でも、それは証拠を信じそこに賭けているのである。

 

*

 

《話が明証を否定する場合でも、それは言葉が真実を構成するということは肯定する》を翻訳すれば(?)「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」でしょうか。漫画の台詞です。個人が受け取った内容こそ、その人にとっての「真実」です。他者に話す行為には、《伝達作用の存在》――受け取ったものを示したいという動機――が備わっているといえます。
 極端をいえば、話に意味が十全に載っていなくとも構わない。人が口を開くとき、あることを他者に伝えたい動機はあるわけだから。どうして彼もしくは彼女は、どのような言葉をつかみ取って、そのように話そうとするのか。口を開かれた瞬間に、話は何かを伝え始めている。心が動いている。
 物を書くことを志して以来、自分に籠りつづける思いがある。文章を書く。自分はなぜこの言葉を選択したかと立ち止まってみる。習慣の作用もあれば、自分にとって特別な言葉を選択していることもある。内容が大切なのはいうまでもない。しかし、内容のみならず、どうしても書かずにいられない内面の動機にまで、読み手に感じ入ってほしいと期待する心もあります。
 言葉の意味が擦りへっても、(わたしにとっての)言葉の価値は減りはしない。連ねる言葉に期待を籠めていて、書きつけるときの動機はちゃんと存在しているのだから。わたしは無駄におしゃべりをしたいだけだろうか。ここをきっちり書きたいというこだわりがある。こだわりの内側にはなにが潜んでいるか。そこを解き明かすのも面白いことだと思う。しかし、そうなれば、自分の言語感覚の基――脳内マップを明示しなければならないだろう。おそらくその作業に終わりはないだろう。
 だから、話を作ることだけに専念する。誰かに伝えたいという動機だけに励まされながら、一字一字の選択に心を配っていきたい。
 世間に頻発する議論は、互いにちがった地平に立って言葉を投げ合うものに思える。ひとりごとが許される話や物語は、聴く側が相手の地平に寄り添う意志を見せることで、相互理解が可能になると思える。わたしが小説や評論を好む理由はそこである。また、どうしてこの書き手は話し手は、このように語りこのように話すのだろうという《伝達作用の存在》に関心を持ち続けている。

偽りの伝達作用

385p.より

 しかし、彼の話がそこで迷っている場所、この行き詰まりを解決するために、ひとつの出口が主体に提供される。伝達作用が、主体のために、知識の公共の産物のうちに、また知識が普遍的文明の中で命ずる使用法のうちに、承認されるような形で設立され得るのである。そしてこの伝達作用は、知識によって構成される広範囲にわたって行われる客観化作用の内部でも効果を持つであろうし、主体にその主観性を忘れさせることもできるであろう。
 彼は、知識の公共の産物に対して、彼の日々の仕事の中で効果的に働きかけ、彼の余暇のぜいたくな文化の与えるあらゆる楽しみを飾るであろう。その楽しみは、推理小説から歴史物語まで、教育会議から集団の関係の手直しまで、彼の現実生活と彼の詩とを忘れさせるための材料を与えるであろうが、それは同時に偽りの伝達作用の中で、彼の生命の持つ独自の意味を認めない材料でもある。

 

*

 

 小説を読むことに親しみを覚える者として、この部分に興味を抱きました。知識に目くらまされると、その厚みと不透明性のなかに迷い込んでしまい、本来見据えるべき方向を見失います。余暇の多くを読書に費やしていたときには、五里霧中の感覚にしばしば襲われました。
 あるいは安易なものに飛びつきたがる性格も加味すべきでしょうか。他者から与えられることに満足して、他者が生み出したものによって内観外観をごてごて飾ってしまう。するうち、主体の存在を喪失してしまう。
 ショーペンハウエルの言葉を引きましょう。「読書とは他人にものを考えてもらうことである。」自分の頭で何一つ考えなくなれば、頭そのものがついていることすら忘れてしまう。そんな愚かさが他者の考えに追随する者にはついて回ります。
 とすれば、こうしてラカンの言葉についていきながら物を考えてみようとしているのは、主体を失いかけている自分ながらの、ささやかな抵抗であるともいえそうです。
 自己喪失ということを思わせられます。自戒しましょう。

言語の螺旋階段

438p.より

(――前略)今世紀に提供されたすべての人間的作品の中で、精神分析者の提供した作品は、おそらくもっとも高度なものである。なぜならそれは、日常的配慮をする人間と絶対知を持つ主体との間の垂直二等分線として働くからである。また同様に、それは長期間の主観的苦行を厳しく要求する理由でもあるが、この苦行はけっして中断されぬだろう。教育分析の目的そのものが被分析者のその実践における参加とは不可分だからである。
 それゆえ、彼の視野に彼の時代の主観性を結合できぬ者は、諦めねばならない。なぜなら、そのような者に、つまり象徴的運動のうちにある多くの生命と彼とを係わり合わせる弁証法を何も知らぬような者が、どうして彼の存在を多くの生命の軸とすることができようか。その時代が彼を延々と続けられるバベルの塔の如き作品の中へと導いていく螺旋階段を十分に知らねばならないし、言語活動の不調和の中で、解釈者としての彼の機能を知らねばならない。この無限の塔がその周囲を螺旋状に廻っているもの、そこに開いているものの暗さについては、その中に永遠の柱の上に生命の腐乱しかけた蛇が起き戦っているのを見るほどの配慮を神秘的視覚に与えておかねばならない。

 

*

 

 かつて仏教が盛んだった国の生まれとして思うことは、文章の後の方にも引かれるけど、〈長期間の主観的苦行〉という言葉は、《禅》をはじめとする《瞑想》に近い事柄を思わせられます。禅の場合、「主観的」という言葉をどのように捉えるか、あるいは両者は異なる次元において苦行をなすものなのか、そもそも禅は苦行なのかという問題もあります。一緒にするのは難しいですね。
 さて、精神分析者の提供した人間的作品が、〈日常的配慮をする人間と絶対知を持つ主体との間の垂直二等分線として働く〉からこそ、〈おそらくもっとも高度なものである。〉と示されます。人と神との間に絶妙なバランスを保って位置しながら、作品をものしたという点において、やはりドストエフスキーという作家の偉大さが際立つように思うし、見ようによってはドストエフスキーもまた精神分析者のようでもあったかと思いもします。
 2020年4月22日現在、わたしは『悪霊』を再読しています。行動となって表に現れ出るものと、その裏面に潜んでいる魂の伏流の源泉の存在とを両睨みしながら、他方で神の問題や無神論、社会のありようも気にしてみる。物の書き手として優れているのは、抜群のバランス感覚を維持しながら、危うきにも凄まじきにも筆の圧を維持しながら書き切っていくことでもあるとも考えます。その点でドストエフスキーは何度読んでも面白い。
 安易にひとつの傾向に傾くことや、無数にあるうちのひとつの選択にみに就くことをしていれば、書き手自身、その主体を〈多くの生命の軸〉として機能させることは難しいにちがいない。言葉の無限連関の情勢下で、言葉がすべてを光の下にさらけ出すと信じ込むのも愚かである。しかし我々は言葉を用い扱うことでしか精神を形にすることができないし語り切れない。ただし語りつくし得ない部分ですらも、言葉によって指し示すことができることを知ってようやく、より高度なものを指向することができるということも真実である。

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